「愛の道」
エルサレムのゴルゴタの丘に向かう、非常に狭い道があります。その道を、「ビア・ドロロサ」と言い、即ち、「苦難の道」という意味です。
イエスがピラドの法廷から出て、十字架を背負い、処刑場のゴルゴタの丘へ行かれた道で、行く途中で、疲れ倒れ、止まった所が14カ所あり、今は、その場所に番号を付け、14停留所を造ってあります。
マルコによる福音書15章21節に出てくるキレネ人シモンが、イエスの代わりに十字架を背負った場所が、第5停留所です。
イエスが疲れ倒れた時に、ベロニカという女がハンカチでイエスの顔を拭いてあげた所もあります。伝説によれば、そのハンカチにイエスの顔が写されたと言われます。
ここで最も重要な事実は、イエスが苦しまれた理由は、私達がイエスが受けられたと同じ苦しみを受けることがないためであったのです。
イエスの苦しみは、私達に救いをもたらすものです。苦難は決して無駄ではなく、私達にとって有益であることが多いのです。
特に、この苦難は私達にとって絶対的に有益な苦難でありました。もし、この苦難がなかったならば、私達は今も希望もなく、生きていくことになったことでしょう。
イエスの苦難を通して、主を信じる者が受ける祝福はどんなに大きいか計り知れません。イエスの受難の道は、死に行く道です。十字架にかかって死ぬために行かれる道です。しかし、この道は、死の道ではなく、命の道です。
これが、キリストの受難の逆説です。死の道が、命の道になるわけです。キリストの死は、私達にとって命なのです。死ねば生き、命を捨てればもっと多くの命を受けることになるという逆説が、イエスの受難の道なのです。
ヨハネによる福音書10章10節にあります。イエスは言われた。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」
また、14章6節にもあります。イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも主のもとに行くことができない。」
イエスは、命の道を開き、この道を歩む人に、主のもとに行くことができるようにしてくださったのです。そして、この道は、命の道であり救いの道です。
十字架の御前に跪きわたしは何を見つめるのか
十字架を通してわたしは何に想いをはせるのか
なんと恐るべきなんと残酷な仕置きでしょう
「いったい誰が考えたのか?」
「いったい誰が行ったのか?」
「いったい誰が誰が誰が・・・」
「それは・・・わたしです!」
わたしは泣き伏すしかなかった誰もがするように
わたしは告白するしかなかった誰もがするように
ただそれだけの為に神の御子は十字架に上られた
わたしに代わって十字架に命を奉げてくださった
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」
それほどまでに人を愛してくださった神の御子
主を信じるそのことだけで自分の罪の深さに気づくだけで救われる
十字架はこうしてわたしの頭上に立っている
まだ花さえ咲かぬゲッセマネの園
立ち止まる道の先に闇がせまり
行く当ての無いわたしを縛り付ける
やっと気づいたわたしには
帰ることのない何を待てばいいと言うの
あなただけが宿した愛の光を見失い
拭えぬ罪を抱いてただ泣きくれるわたし
零れる涙をもう誰も拭ってはくれない
たった一人のわたしに出来ることは
ただ胸に残る痛みをこらえて
十字架を負いあなたの跡を歩むことだけ
遙かな苦難の道を
