「スヨンの日記」・・・①

 物音で目が覚めた。真っ暗で何も見えない。何処からか話し声が聞こえる。近くに誰かいるようだ。
 枕もとの電気スタンドに手を伸ばしたけれど、何故か明かりは点かなかった。
「スヨン、もう少し待ってね。もう直ぐ出来上がるから」
「ユミ、よそ見しないでくれよ。焦げちゃうから」
「大丈夫よ、料理は得意なんだから、イナこそちゃんと・・・ほら!」
 イナとユミが隣のキッチンで何か料理を作っているらしい。突然、チャイムの音がした。
「誰かしら、イナ、出てよ」
「はいはい、わかりました」
 私は何故か、怖い、と思った。
「中に入れてくれよ! 俺だ、スヨンは生きてるのか、生きてるんだろ」
「あたり前じゃないですか。死にはしません」
「中にいるんだろ、会わせてくれ!」
「義兄さん、今はまだ駄目だよ、意識が戻ってないんだ。スヨンは何も覚えていない。それどころか心は死んでいるのも同然なんだ。義兄さんだってわかってるはずだよ。理由はわからないけれど義兄さんの顔を見ると怖がって叫びだすのを」
「どうしてなんだ!」
「僕にもわからない、医者にもね。何があったのかさえわからないんだから、落ち着いたら連絡しますよ。今は待つことしか出来ない、そうでしょ、義兄さん」
「ああ、そうだな、わかったよ。イナ、よろしく頼む」
 イナは難しい顔をして部屋に戻って来た。
「お義兄さんなの?」
「ああ、みんな心配なんだよ。スヨン! 早く元気になってくれよ」
 私は応えようとしたけれど、頭の中ははっきりしているのに、身体はまるで自分のものではないかのように乖離していて、言葉を吐き出すことは出来なかった。どうなってしまったのだろう。
 私は自分の身体をどうすることも出来ないことに、ようやく納得がいった。私の意識はその身体から抜け出していた。
 ベッドに横たわる自分らしき女を見下ろしていた。やせ細ってとても小さく見える。あれが私?
 とても信じられない。まるではじめて見るような感じがする。あんなに弱々しい身体の中に存在したとは・・・今の私には耐えられない・・・そんな不思議な気持ちになっていた。
 何か乗り物に乗っているのだろうか? 私の意志に関係なく動き回っているようだ。ひらひらと飛んでる様で・・・そうだ、蝶々になったように私は舞っている。
「イナ! 見てよ。蝶々がいるわ、ほら」
「ほんとだ。何処から入ったんだろう?」
「こっちにも、あそこにも、見て! たくさんいるわ。気持ち悪いわ」
「窓を開けて逃がしてあげよう」
 イナが部屋の窓を開けてくれた。私は嬉しくて気持ちが弾む・・・と思った瞬間に漆黒の闇の中に吸い込まれ、意識も遠のいていった。

 その日は、とても寒い朝でした。どんよりと曇った空から白いものが落ちてきたかと思ったら、あっと言う間にそれは初雪になっていた。
 丘の上の教会では、葬儀が始められようとしています。集まった親族や友人知人は皆押し黙って牧師の言葉を待っていた。
 祭壇に置かれた棺には真っ白い死装束に包まれて若い女が横たわり、胸の上に組んだ両の手にロザリオを握り締めて、とても静かに眠っていた。その顔は大理石の聖母の彫像のように白く、そして冷たかった。
「あなたの罪はその信仰によりすべて許されました。あなたの魂はすでに主と共にあります」
 白い顔が一瞬微笑んだように見えました。牧師に促され、参列した人たちは手にした白百合を一人ずつ棺に納めてゆき、最後に両親と兄が寂しそうに顔を撫ぜ、額にキスをした。
「忘れないわ、だからお前も忘れないで。きっとまた会えるから、きっと」
 母親は離れがたいように娘の顔を何度も撫ぜていた。側で父と兄がそっと見守るように立っていた。
「お父さん、これを・・・」
「何だい、これは?」
「日記なんだ。読んでみて」
「スヨン? スヨンって・・・お前、いったい誰の日記なんだい」
「読めばわかるよ、不思議な日記なんだ」
 それは黒い革表紙の厚みのある日記帳で、使い古されているようだった。表紙にハングルで「スヨンの日記」とだけ書いてある。ページを開くと、こんな書き出しからはじまっていた。

1978年3月26日(日)
 今日、夕暮れの墓地で私は二人に別れを告げた。
「お母さん、私達また会えるよね、兄さん、私達また会えるでしょ!」
 二人は何も答えてはくれなかった。当然かもしれない。私のことなど心配どころか、気にも留めなかった二人だもの。そして、二人仲良く逝ってしまったから。
「明日出発するわ。今度いつ此処に来れるか分らない、もう戻らないかも・・・さようなら」
 私は白い辛夷の花を、二つ並んだ墓標に供え背を向けた。桜はまだ蕾のままだったわ。墓地の坂道を下りながら思い出していた。もう三ヶ月も経っているのに、私はあの時の恐怖で体が震えだしそうだ。
 あの日は風が冷たかった。朝から曇っていて、空は今にも雪になりそうで、憂鬱な日々が続いているのに、余計に気分が落ち込んでいた。
 悩みは進路のこと。本校の卒業生は大半が進学するか、そうでなければ浪人する。私の高校は有名な進学校だったから。
 家の経済力では大学生の兄一人通わすのでやっとで、私までは無理なことだった。それに父が死んでからは、母は大好きな兄に係りっきりで、私のことなど気にも留めない。それどころか、私のことを無視しつづけた。

 スヨンは、いつものコンビ二でおにぎりとジュースを買って、帰宅すると家の鍵は開いていた。そっと入り、静かにドアを閉めた。
 キッチンを覗くとテーブルの上に母のバックとスーパーの袋が見えたが、母の姿は無かった。ガスレンジには油の入った天ぷら鍋がのっていたが火は点いていなかった。油の臭いに吐き気がする。揚げ物は生理的にスヨンは好きになれない。
 奥の自分の部屋に向かった時、お風呂場に人の声を聞いた。母の笑う声がして、余計に苛立たせる。
「お母さん! 何してるの?」 心の中で叫んでいた。
「母さん、もういいよ、自分でするから、子供じゃないんだから」
「何言ってるの、あなたは私の大切な息子よ!」
「そう言う意味じゃなくて・・・もう大人って意味だよ。どこの母親が二十歳過ぎの息子といっしょに風呂に入ってる? おかしく思われるよ。だいち恥ずかしいよ」
「そうかしら、背中を流してるだけよ、私はいっしょでも全然構わないけど・・・ふふふ」
「勘弁してくれよ、彼女に知れたら困るよ」
「嘘おっしゃい! いもしないくせに」
「いるさ・・・俺、けっこうもてるんだぜ」
 スヨンは、お風呂場からもれてくる、母と兄の会話をこれ以上聴くに堪えられず、耳を塞いで二階へ駆け上がっていた。
 スヨンは着替えながら思った。どうして兄は母のすることに甘いんだろう。嫌ならもっと強く拒否すればいいのに、結局いつも母の言いなりになってしまう。優しい性格だからしかたのない面もあるけれど、スヨンは傍から見ていて、いらいらしてしまう。
 スヨンは母が嫌いだった。自分が構ってもらえないから、心配してもらえないからではなく、揚げ物と同じように、それは生理的だった。
 いつの頃からか、何か不潔で、蛇のような生臭さを連想させるようになっていた。いったい、何時からだったろうか。
 スヨンには、ある疑念があった。それは時間が経つにつれてどんどん増して来て、今では確信に近いものになっていた。
 それは、スヨンが両親の本当の娘ではない、ということ。確証がある訳ではない、たとえば血液型が違うとか、戸籍を調べたとか。幼い頃は、怖くて両親はもちろんだが、兄にもこんなことを訊くことは出来なかったから。
 はじめてこんな思いを持ったのは、小学校に入ってからだった。ある同級生の誕生日会にお呼ばれされて、とても楽しい思いをしたことがあった。その同級生とは、それがきっかけで仲良くなれたし、今では無二の親友である。
 スヨンは子供心に自分の誕生日にも同級生を呼んで、みんなと仲良しになりたいと思って、母にその話をした。その誕生日会がどんなに楽しかったかを一生懸命に話した。
 スヨンは今でも思い出すと、あの時の恐ろしさが甦り、同じように身が縮んでしまう。
「何で私があんたの誕生日会をしないといけないのよ。スヨン! あんたは何様のつもりなんだい?」
 スヨンは泣いたりしなかった。泣けばこの母がもっと酷いことをスヨンに浴びせるだろうと本能的に自分を守ったから。今は何かあるいは誰かが守ってくれたと、スヨン自身は信じているようだった。
 あの時からスヨンは人がとても怖くなって、口数の少ない少女と他人に思われるようになっていった。当然、もの思いに耽るようにもなっていった。
「どうして、スヨンは誕生日会をしてもらえないの? ママはスヨンが嫌いなの? 何かいけない事したの? どうして、どうしてなの?」
 スヨンは心をくしゃくしゃにして泣いていた。心の中が流せない涙でいっぱいになっていった。それに反して表情はマネキンのように白く凍りついていった。
「スヨン、居るのか?・・・入るぞ」
「何だ、居るんじゃないか。いつ帰ったんだ?」
「ついさっきよ、何か用?」
「別に・・・ご飯食べたのか?」
「後で、食べたくなったらいただくわ。兄さんはママさんといっしょに済ませたの?」
「ああ、たまにはお前ともいっしょに食べたいのに」
「私はけっこう」
「ちぇ! 相変わらずだな。スヨン、おふくろと上手くやれよ、女同士はいろいろとあるだろうけど、親子なんだからな」
「心配しないで、上手くやってるから。昨日今日始まった事じゃないでしょ、お互いは慣れっこよ」
「俺には関係ないか、まあ、適当にやってくれよ。そんなことより、お前、卒業したらどうするんだ。大学へ行きたかったら行けよ、どうにかなるさ」
「どうにもならないわ、今の家の状況じゃ無理でしょ。まだ時間はあるけど」
「スヨンが行きたいなら、俺は大学なんて辞めたっていいんだ。在日韓国人はどっちにしろ此処では、まともに就職なんて出来ないからな」
「そうかもしれないけど、勉強はするべきでしょ」
「おいおい、何処の大学生がまともに勉強なんてしてる? 遊んでばかりさ。まあ、遊びも人生勉強ではあるか・・・ハハハ」
「兄さん、やっぱり映画を創るの?」
「まだ、先のことだろうけれど、映画は俺の夢だから、絶対に諦めないさ。スヨン、お前、出演しろ! ああ、そうだ、女優はどうだ? そうだよ、女優がいいや、大学なんて行かなくたっていい。あんなつまらない所」
「何言ってるの、わたしは嫌よ。恥ずかしいもの。だいいち、出演料は無しでしょ」
「バレたか?」
 どこまでが本気なのかスヨンにはわからなかった。

 兄が部屋を出てからしばらくして、携帯電話の着信音が鳴った。親友のユミからだった。
「ユミ? ううん・・・ちょうど話したかったから。ちょっと嫌なことがあって。何してた? そうなの。あのさあ・・・今から会えない、わたしがそっちに行くから、いいでしょ? ごめんね、ユミの顔が見たいの、・・・話したいけれど、上手く言えないのよ、電話では。それじゃあ、後で、すぐ出るから待っていて」
 スヨンはコートとマフラーを掴んで部屋を出た。一階に下りると母親だけがリビングでお酒を飲みながらテレビを見ていた。
「なんだい、こんなに遅くに。食事は済ませたんだろ?」
 横目で見ながら言うとまたテレビに顔を向けた。
「ええ、済ませたわ」
 母親は返事をしなかった。グラスに焼酎を乱暴に注ぐと一気に飲み干した。
「わたし、ちょっと出かけてくるわ。友達と試験勉強するから、もしかしたら今夜は帰らないかも・・・」
「さっさと行きな! 鬱陶しいんだよ、お前は」
 スヨンは玄関でコートとマフラーを着て、ドアを開け外に出た。やっぱり雪になっていて、周りはうっすらと白くなり始めていた。スヨンはぼんやり眺めていた、後ろで何気に母親の声を聞きながら。
「ああ、ほんとに嫌な娘だよ。腹では死ねばいいと思ってるくせに、誰に似たんだか・・・・・・」
 スヨンは意に介しなかった。聴いていなかったのかもしれない。聴こえたのは、「許して上げて、許して上げて、スヨン、許すのよ! あなたなら出来るわ」
 ユミだったらそう言うだろう、と彼女から誕生日に貰った、胸に掛かっている銀のクロスに、そっと手を添えるスヨンだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ハヌルの物語」・・・⑨

 あなたにこれだけは言っておきたい。

 存在することの意味。生きてることの意味。

 わたしがこの世を去る時に知った真実をあなたに伝えたい。

 人がこの世で成し遂げることは高が知れてる。

 ならばどうするか・・・諦めてしまうのか

 いいえ、そうじゃないの。

 次の世でもそれはできるということ続くということなの。

 存在に終わりはないの。

 信じられるかしら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ハヌルの物語」・・・⑧

 俺は何も告げずに両親の元を、この教会を出た。あの優しく暖かな両親に何をどう言ったらいいのか言葉なんて見つからなかったから。

「フランクの奴どういうつもりなんだ! お母さん、申し訳ありません」

「いいんです。誰のせいでもありませんよ。さあ、彼のためにお祈りしてあげましょう」

「はあ・・・ですが」

「神様の愛は信じない者にも及ぶのよ、わかるでしょ。フランク、神様は信じない者こそ憐れんで下さるのよ。きっといつかあなたにも分かる時が来ると、この母は願っているわ。元気でいてください」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«「ハヌルの物語」・・・⑦